土田選手

Interview

頑張りの原動力は勝ち好きの性格と大切な家族


「そんなに頑張れる土田さんの原動力は?」ってよく聞かれます。障害を持ったのが高校2年生のときでしたが、まずリハビリの一環でスポーツの楽しさを知って、その後、競技スポーツのほうに移行しました。そこで最初に持ったのは単純に「勝ちたい」という気持ちでしたが、だんだんと「競技を極めたい」「世界の頂点に立ちたい」と。私、負けず嫌いというより、勝ち好きなんです。 その勝ち好きな性格が原動力なのは確かですが、競技者生活の過程の中で、結婚、出産と、女性の一大イベントを経験させていただいてできた家族が、もうひとつの原動力になっています。支えてもらっています。

1998年の長野冬季パラリンピック大会は、自国開催ということもあり、選手、スタッフが一丸となって取り組めたことで、日本選手団はメダルを量産しました。私自身も金2つ、銀2つを獲得できましたが、長野が終わった後に私の競技種目のアイスレッジが、選手人口が少ないということで廃止に。

それで今度は、夏場のトレーニングに取り入れていた陸上競技で頂点を、金メダルを目指そうと、冬夏のチェンジを選択しました。車いす陸上は世界の競技者の層が非常に厚く、困難な挑戦なのは明らかでしたが、その現実にまた、私の勝ち好きの性格はとても刺激されました。


痛恨の北京からの再起パワーをもらった入院生活


2000年シドニー、2004年アテネと夏季パラリンピックを経験させてもらい、2008年の北京大会は、周囲も自分自身も車いすマラソンの金メダルをかなり期待しての出場となりました。結婚し、子どもを出産して初めてのパラリンピックということもあって、地域の皆さんや家族の力を借りて一丸となって準備してきた大会でもあるので、自分ひとりの結果じゃないなと。絶対金メダルを獲りたいという思いが強かったのですが、実際には、いい形でマラソンに結びつけたいと走ることにした5000mでひどい転倒事故に巻き込まれて大けがを負ってしまい、身動きがとれなくなって担架で運ばれ、本命のマラソンはスタートラインにつくこともできず、寝たまま搬送されて帰国をしました。

日本に帰っての入院生活は2か月間。最初の病室は、余命を宣告された人たちのホスピス病棟が窓からよく見える部屋でした。昨日いた方がもう今日はいないという現実を見て、死というものと向き合いつつ数日を過ごした後、次はなぜか分娩室が隣にある産科の部屋に移動。今度は朝から晩まで赤ちゃんの声とともに生活して生命を感じました。死と生に向き合って暮らしたこの月日から、再起のパワーをもらった気がします。強くなれました。この2か月の入院は無駄ではなかったです。


家族とともに1年1年を極めていきたいと思います。


私は、姉と2人姉妹です。姉はどちらかというと文科系。母親も体育会系ではないので、最初は「なんでそんなに頑張るの!?」と言われました。でも今では本当に理解してもらって、応援してもらっています。ありがたいです。主人は、コーチ、トレーナー、マネージャーとして、常に隣でサポートしてくれています。結婚して、家庭をもって、子どもを産んで、育てる。その中で競技者としての目的をどうしたら達成できるか。結婚して家族が増えるということは、それ以上に関わる人もどんどん増える。その中で、どうすれば同じ目標が持てるのかということでの難しさがいくつもありました。私は、自分の中に設定した目標を、常に周りの人に共有してもらうようにコミュニケーションを図ろうと思いました。こういうことがやりたい。そのためにはこういう手助けが必要。で、こういうことをしてもらいたい。ということをいつも意識して、怠らずにやってこれたので、皆とひとつになれたのかなと。そのことが大きな軸になったのかなと。そう感じています。

正直、次の4年後のリオデジャネイロのパラリンピックというのはイメージできていません。ただ、マラソンだけでなくトラック種目でもまだ超えていない記録があり、自分の「極めた感」というのがまったくないので、1年1年になると思いますが、いろんなことを視野に入れながら取り組んでいける1年1年でありたいなと考えています。

女子の障害者競技は、日本は選手人口が少なく、若い後輩たちが少しずつは育って来ているのですが、世界レベルには到達できていないのが実情です。少しでも押し上げていきたいですね。自分自身が記録にこだわってやっていく過程の中で、ともに世界の舞台を目指せる選手が1人でも多く増えるように活動したいです。年齢的なこともありますし、自分自身の有り様をしっかり見つめていきながらの1年勝負で。


終わり。

 

(2012年10月15日 収録)

 

 

 

土田選手
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